ろばーと気まま雑記

気ままに書いてきます

初詣のおみくじと新年のプレッシャー

先日、新年の初詣に友人たちと行ってきた。
神社に参ればおみくじを引くという人は相当数いるだろう。
ご多分に漏れず自分たちもその類であり、やれ恋人が欲しい、学生でも楽に稼げる手段を見つけたい、良い就職先に内定を得たいエトセトラエトセトラと今年の煩悩を口にしながらおみくじ筒を心いくまで振っていた。



自分が振ったおみくじ筒からは1番と書かれた棒が出てきた。
正直大吉確定である。

巫女さんには何事も無いかのように「1番でした」と伝え、500円くらいのお納めと引き換えにおみくじをもらう。


果たして開いたおみくじには案の定「第一番 大吉」と書かれていた。
その下に和歌とその意、ちょっとした一文が書かれ、さらに仕事や金運、病気や住居など様々な項目についてどうどうと続く。
大吉なのだからもうそこには「順調です」「結果良し」「上手くいく」といった言葉が並ぶわけである。
全項目をもって今年のあなたは一切合切が順調に進みますと伝えてくるのだ。


だがしかし、いくらおみくじが神様からのご託宣であり非常にありがたく貴重なものであるといっても、今年の自分を生き抜くのは他ならない自分である。
「大吉」な1年を作り出せるかどうかは神様の采配ではなく自身の心がけなのだ。
少なくとも自分は新年を迎えるたびにそんな気持ちを持って次の365日に向き合うことが多い。



そこに新年早々「今年は大吉」と被せられるとどうだろう。
「神様もそう言うのだから今年は何としても大吉な年にしなければならない」という思いが何分芽生えてしまうのである。
大吉を引いておしまいの1年にはするまい、今年はいつにも増して全方面で成功を納めねばなるまいという義務感にも似た感情が去来する。
大吉が新年にプレッシャーを与えてくるのだ。



例年であれば吉や小吉といった結果とともに今年も抜かりなく過ごすが良いという風な一文とともに、今年も力まず自分のペースで頑張っていくかというのが通常であった。
大吉は自分のもとには現界しない概念。されどそれに匹敵するくらいにこの年を作ろうというのがこれまでの気持ちの作り方だったのだ。


急に大吉なんて出られると困る。
この年を大吉に見合うものにすべく頑張らないといけないではないか。いや、頑張るけれども。
今年は就職活動も本格化するし、学生最後の年*1謳歌するとともに社会人となる準備も進めなければいけない。
大吉であることに越したことは無い人生の中でも重要になるであろう年である。
言われなくとも頑張ることは必至なのだ。


元より自分の力で良い年にしていくところに
大吉がブーストをかけてくれる。
それくらいの気概で過ごしていこう。

*1:大学院を休学してそのまま退学予定なので複雑ではあるが