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『トイ・ストーリー4』感想 どのように「トイ・ストーリー」と共に生きてきたのかを問われる作品

公開から2週間経ってようやく時間が取れたので『トイ・ストーリー4』を観てきた。
(ネタバレを踏まないように生活しきるのにとても精神を使った笑)

以下、ネタバレも含みつつ感想を記したい。

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僕と「トイ・ストーリー

本作に対する色んな人の感想を拝読するに、今までの人生でどのようにして「トイ・ストーリー」シリーズと触れ合ってきたかによって抱く思いの比重が変わってきている気がする。
なので、まずは自分自身がこれまで「トイ・ストーリー」とどのように付き合ってきたのかを整理したい。

『1』や『2』を最初に観たのはいつの日なのだろう。
96年生まれの自分にとって『1』や『2』は無自覚に触れた作品のひとつであり、幼少の自分はそのキャラクターたちを無意識に好んでいたのだろう。
小学校に上がった後も、実家にはどちらもDVDがあったから風邪を引いて学校を休んだりなんかした日には布団の中から居間のテレビに向かって鑑賞するような作品だった。
そして『3』が公開されたのが中1の頃。

トイ・ストーリー」は自分にとって生まれた時から触れてきた作品で、ウッディやバズ、レックス、ハム、スリンキーにジェシーもブルズアイも小さい頃から大好きなキャラクターたちだ。生まれついて最初に自分はこの作品を好きだと感じたのは紛れもなく「トイ・ストーリー」なのである。
実家の自室の一角には「トイ・ストーリー」グッズゾーンがあるし、大学生になってからは特撮好きも影響して超合金の合体ロボまで買ってる始末だ。

自分にとって「トイ・ストーリー」は成長を見守ってくれたシリーズであり、その登場キャラクターたちに対する思いは「おもちゃ」というよりもむしろ「友達」なのだ。

『4』が描いたラストに対する賛否

結論から言うと、個人的には「有り」だと感じられる結末だった。
正直な話、ディズニー群がこれから世に出す作品において、自立した女性だったり多様な生き方を認める価値観を描く流れが強いのはもう受け入れるしかないと感じている。

それはピクサー作品でも実写作品でもMCU作品でも何でも。先の『シュガーラッシュ:オンライン』や『アラジン』、これからの『オンワード』や『アナ雪2』と作品がそういったメッセージを放つのは時代の要請でもありどうにもならないと思う。

今回、その作品の中に『トイ・ストーリー4』が置かれた。その事自体に憤りを覚える人たちが少なからずいてるのも分かる。
その選択が美しくまとまった3部作を壊してしまったと。
確かに今作を受けて「トイ・ストーリー」の世界が拡張されすぎてしまったと感じてしまう気持ちは少なくない。

だがしかし、自分の気持ちとしてはそれは描かれて良かった内容であったし、物語の構成としてもこれまで積み重ねてきたシリーズに対して最大限に符合させる形で展開されていたと感じている。

『4』でウッディが示した自らの役割と最後の選択

「子どもの側にいる」ことこそが「トイ・ストーリー」世界、ひいてはウッディのおもちゃ観であるのなら、誤解を恐れずに言うのなら彼は今作で「おもちゃでなくなった」ということになる。
ただ、それは何も1人の子どもを持ち主として信奉する事に嫌気がさしたわけではなく、結局はタイミングの問題だったのだと思う。

『3』で最愛のアンディから新たな持ち主ボニーの元へ譲られたウッディのその後のおもちゃ生活は本人にとって充実していたとは言い切れないだろう。
クローゼット組になってしまったり、アンディの部屋の頃のように上手くリーダーシップを取れているわけではないのだ。

それでもボニーのためを思って動き続ける結果、フォーキーを見出し、ボニーのために彼に「おもちゃ」として育てようとする。
その中でボーと再会し、最終的には自ら「迷子のおもちゃ」になる選択をする。

『4』においてウッディの役割はもはやおもちゃとしてフロントを張ることではなくなってしまっているという現状があった。
そこにボーとの再会、ギャビーギャビーとの一件が加わっての選択なのだ。

自らが「子どもの側にいる」おもちゃを続けるのではなく、そのおもちゃ達を生み出していく側に回る。
それがウッディの決断であり、だからボニーとフォーキーのため、そしてギャビーギャビーとまだ見ぬ持ち主のためにボイスボックスを譲ったのだ。
そして保安官バッジすらもジェシーに継承する。
この2つを持って彼はもう持ち主のいるおもちゃには戻らない決心をしたのではないだろうか。

どこかの子ども(アンディ)にとってのお気に入りのおもちゃ(自分)を生み出していく側へのジョブチェンジ
「おもちゃでなくなる」という決断。

これを許せるのかは冒頭でも触れたがその人が「トイ・ストーリー」とどう付き合ってきたのか次第だろう。
自分にとってウッディはおもちゃというよりもむしろ友人とか先輩とか、そういう形容を当てる方が強い存在なのだ。
だから、彼がロマンスと新天地を得てまた物語を進めていく最期は「有り」という気持ちでいる。

されど拭いきれない“3+1”感

これはもうどうにもならないと思う。『1』〜『3』の美しさをまとめて捉えた時に『4』が一定以上の感覚で蛇足に感じてしまうのはどうにもならない。

そりゃ『3』の続編としての『4』でもっと描いてほしかったことなんて挙げればキリがない。

どうしても許せないのはバズとの友情を感じられるシーンがほとんど無かったことだ。
『3』までの「トイ・ストーリー」と言えばアンディとおもちゃの物語であり、ウッディとバズの物語だったはずだ。
この描写が『4』にはほとんど出ない。
『3』までのキャラクターの影が全般的に薄くなってしまうのは五万歩くらい譲って納得するとしてもバズとのシーンはもっと欲しかった。
いや、分かる。これまでシリーズを見てきた自分たちには分かるし伝わってくるけれど!それでも『4』の中でもう一度ウッディとバズの信頼関係をこれでもかと見せつけてくるシーンを投げつけてほしかったという気持ちになってしまう。

どうしてもバズが内なる声を聞きながら行動して最大限ウッディに譲歩して行動していたようにも見えてしまって...辛い。
あとバズ好きとしてはもう少し彼に見せ場をですね、あげてほしかったという気持ちですねハイ。

『1』〜『3』と『4』についてはナンバリングは続いてるけど別章だと思って受け止めるのが精神衛生的に安全なんだろうなぁ。
『4』は制作発表直後から噂されてたように、「ウッディとボー」の物語だったと思う。

それでも「トイ・ストーリー」を愛しながら生きていく

『4』が制作されて結末が描かれた以上、観客としては受け止める以外に道は残されていない。
パンフの監督インタビューにあるが“すべてのエンディングは新たな始まり”なのだ。
『4』で彼らが踏み出した始まりを尊重する以外に何ができるのだろう。
その中で時折、『3』までの彼らを懐かしめばいいのではないだろうか。
無限の彼方まで続く彼らの物語を精一杯愛しながら生きていきたいと、自分はそう思うのだ。

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